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【アラベスク】  第1章 春の嵐



第2節 白い罠 [3]




 家まで送るという二人の言葉を強引に押し返して、美鶴は一人で帰路についた。
 男と一緒に帰るなんて・・・
 それは、ただの知り合いや友人ではなくそれ以上であると、お互いがお互いを認め合っている者たちのすることだ。そう美鶴は思っている。だから断るのは当然のことであり、美鶴にとって二人の言葉は、まるで台本に書かれたセリフを聞かされているような、ひどく耳障りな物音に思えた。
 駅を出た頃にはすっかり夜。薄ぼんやりとした外灯だけが、細い路地を照らしている。
 この辺りは昔からの家が多く、だから古い家が多い。近くを通っていた路面電車の廃線も大きな要因の一つだろう。昔は繁華街として賑やかだったらしいが、国鉄と呼ばれた時代に駅が整備され、駅を中心に都市も整備され、中心部も移動した。広々とした新興住宅地が建設され、それに伴い郊外には大型ショッピングセンターが出現した。
 古い町並みは道路が狭く、少し大きめの車では身動きが取りづらい。そのような地域は、人々から見捨てられる。
 ほとんど葉桜となった木の下で、まだ少し残っている花びらがはらはらと風に舞う。
「さくら・・・」
 無意識につぶやいていた。
 学校では、特に女子生徒の間では、友人同士で名所へ桜詣(さくらもうで)へ出かける者も多い。中には親に連れられて、関東や関西の旅館に宿を取り、桜を拝みに出かける者もいる。
「毎年、一番見ごろの時期に宿の主人が予約を入れておいてくれるんですよ」
 楽しげに話す同級生の言葉を聞いたことがある。
 美鶴には、花見をしたという記憶はない。
 離婚した母は夜働き、深夜か早朝に帰宅する。美鶴が学校から帰ってくる頃に出て行くので時間が合わない。休日はお得意(・・・)()に呼ばれていることが多い。
 そんな美鶴の桜の楽しみ方は、近所の土手に植えられたほんの短い桜並木を、行ったり来たりすることだった。風が吹いて散り舞う花びらの中を全速力で駆け抜ける。そうして振り返るその先には・・・
 ハッと足を止めた。片手で軽く額を押さえて(うつむ)く。
 どうしてあの顔を今頃思い出すのだ。
 きっと山脇や聡に会ったからだ。そうだ。あの二人に会ってしまったから・・・
 美鶴はギリッと歯を食いしばった。
 どうして? どうして昔の知り合いなんかが今頃になって出てくるの? 忘れたいのに。
 ・・・忘れたい?
 違う。忘れたいんじゃない。忘れてたんだ。あんなヤツの事。すっかり忘れてたんだ。私には関係ないから。私には必要ないから。忘れてしまっても構わないから。
 不意に背後から腕が伸びた。
 脳裏の過去に気を取られていた美鶴を一瞬で押さえ込む。
 驚きに声をあげようとする口を片手で塞ぐ。もう片方の手が、痩せた美鶴の身体を抱え込む。
 なにっ?
 相手は美鶴を後ろへと引き寄せだす。美鶴には、抵抗する(すべ)も体力もない。
 連れて行かれる!
 大きく目を見開いた。目の前でゆらゆらと外灯が揺れている。口を塞がれて息苦しくなり、目の前が霞む。
 痴漢? 変質者?
 必死に足を踏ん張るも、引きずられるようにして引っ張られる。
 殺される?
 脳裏にその言葉が(よぎ)ぎったときだった。
 突然束縛から解放され、そのまま後ろへ倒れこんだ。と同時に、耳に響くほどの大きな罵声。
「オラァ! テメェ! 美鶴に何しやがんだよ!」
 大声と共に鈍い音が数発。唸るような男の声と乱れる足音。それを追いかけようとして、もう一人が止めた。
「やめろ。無駄だ」
 言い終わらないうちに車の急発進する音が暗闇に響く。音は急速に小さくなり、消えた。
「大丈夫?」
 背中から抱えられ、美鶴はようやく身を起こした。大きく息を吸い込みながら見上げると、山脇の(つぶ)らな瞳が心配そうに光っている。優しげな黒い瞳のそばで瞬く桜色が、よく似合う。
 駆け戻ってきた聡も、美鶴のそばにひざをついた。
「大丈夫か?」
 数発聞こえたのは、聡の蹴りが相手の腹へ食い込んだ音だろう。だが聡の呼吸はまったく乱れていない。
「どっか痛いところは?」
「大丈夫」
 なんとか答えてひざを立てると、山脇がすっと手を差し出した。だが美鶴は、それを無視して立ち上がった。
「今の何? 変質者? よく出るの?」
「知らない。それよりも・・・」
 強い口調で聡を黙らせると、放り出されていた鞄を拾って二人へ向き直る。
「どうしてここにいるワケ?」
「どうしてって・・・」
「心配だったんだ」
 口ごもる聡を制して、山脇がキッパリと答える。
「最近は物騒な事件が多いみたいだし、やっぱり女の子を一人で帰らせるには暗すぎるよ。でもどうしても嫌みたいだったから、こっそり後をつけてたんだ」
 思わず、顔を背けてしまった。言いようの無い感情が頬に湧き上がるのを感じる。それでも必死に平静を装い、改めて山脇を睨み上げる。
「こっそり後をつけるなんて、ずいぶんと悪趣味ね」
「でも、結果的には役に立った」
 山脇の(かん)()たる笑みに、美鶴は(むく)れた。我ながらガキっぽいとは思ったが、抑えることができない。
 息苦しいような不快感が胸を包む。
 心配だから・・・と言われたことなど、美鶴は今まで一度もない。まして、異性に言われたことなど、あるワケがないし、言われる自分を想像したこともない。それをサラリと言ってのける山脇が、美鶴にはひどくイヤらしい人間に思えた。
 自分をドラマのイケメン主人公にでも仕立てているつもりなのだろうか?
 一方、単純単細胞という言葉を具現化したかのような聡は、ただ心に浮かんだ言葉をそのまま口にしているだけ。
「そうだよ。マジでヤバかったんだぜ。お前さぁ、心当たりとかねぇの?」
「あるワケないでしょう」
 ぶっきらぼうに答えて腰に手を当てる。
「とにかく、尾行なんてマネはやめてよね」
「それはできない」
 山脇の声は小さいが、力強くハッキリとしている。
「こんな状況に遭遇してしまっては、もう一人では帰らせられないね」
 聡も(うなず)くと両手を広げる。
「ワリィけど、無視できねぇぜ。お前が何と言ったって家までついてくかんな」
 胸で腕を組み、顎を引いて美鶴を見下ろす。その横で山脇が、同じく胸で腕を組み目を少し細めて、やはり美鶴を見下ろしている。
 こうして改めて見てみると、山脇もワリと長身だ。聡の方がやや高いが、それでも180cmはあるだろう。160cmそこそこの美鶴とは20cmの差。その高さから二人のまっすぐな視線を受けて、美鶴は舌を打った。そうしてスカートを(ひるがえ)すと背を向ける。
 相手をしているだけ時間の無駄だ。
 だが、二人を無視して歩き出そうとする肩に、山脇が軽く触れる。
「ちょっと・・・」
 そう言って、上着の裾をつかむ。
「何よ」
 不愉快そうに眉をひそめるのを、山脇が軽く手をあげて制した。
「汚れてる」
「どれどれ?」
 聡も後ろから覗き込んだ。
「あ、ホントだ。白くなってるぜ。でも(こす)れば取れるかも」
 しかし、伸ばしかけた手を途中で止めた。そうしてそのまま、上着に触れることも、逆に引っ込めることもできない。
 汚れは薄暗い外灯の下で淡く(しら)いでいる。一見すると、白い粉が擦れついたようにも見えるが、一部はチラチラと光っていて、少し透明っぽい結晶体のようにも見える。
「おい、これって・・・」
 聡の瞳がすばやく動き、山脇も目だけを美鶴へ向ける。
 切れかけた外灯が(またた)く。
 美鶴は、唇が急速に乾いていくのを感じた。







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